「二人のドロテーア
 ―ドイツにおける最初の女性博士たち―」

屋敷二郎(2000年4月)

 

 本稿で取り上げる二人の女性に筆者が関心を持つようになったそもそものきっかけは、ケルン大学で在外研究を行っていた折に、たまたま「女性の学業は大変!」と題する企画展が同大学図書館にて開催されたことであった。そのとき筆者の眼をひいたのは、一通の学位記である。そこには、概ね次のようなことが記されていた。

 

 極めて慈悲深きわれらが君主、プロイセン王フリードリヒ陛下の権威により、恩寵ある医学部の決定に基づき、ハレ大学の光輝ある学長代理にして医学・自然哲学教授ミヒャエル・アルベルティのもと、学位授与権者たる医学部長・正教授ヨハンネス・ユンカーは、医学の学識と経験をすぐれて備えた婦人、クヴェードリンブルクのドロテーア・クリスティアーネ・エルクスレーベン、旧姓レポーリンに、医学における最高の名誉と博士の学位を、1754年6月21日に、法の定めるところにより授与した。

 

 たまたまその頃フリードリヒ大王の啓蒙絶対主義をテーマに学位論文の準備を進めていた筆者は、たちまち興味をそそられてしまった。女嫌いで知られ、女性蔑視の傾向がつとに指摘されてきたフリードリヒが、ドイツで最初の女性博士の誕生に関与していた? 意外な発見にひかれて調べるにつけ、筆者はしだいにこの魅力的な女性について、研究者として本気で取り組んでみたいと思うようになった。実際、しばらくの間はドイツの研究者仲間たちがあきれるほど史料集めに熱中し、新しい事実を知るたびに彼らに喧伝するというありさまであった。挙句の果てには、エルクスレーベンの故郷であるハルツの美しい小都市クヴェードリンブルクを訪れもした。クロップシュトック博物館が改修工事中のため彼女についての展示が見られないと知っていたにもかかわらず、である。

 

 そのような折、いみじくもハレ大学で開催された若手法史学者フォーラムで知り合ったドイツ人研究者と、ちょっとした議論になった。彼女の言うには、ドイツで最初の女性博士は著名な歴史学者アウグスト・シュレーツァーの娘であるはずだ、というのである。彼女が見たというゲティンゲンの市立博物館では、筆者が訪れた際も確かに、郷土愛ゆえなのか「ドロテーア.シュレーツァーは、1787年9月17日にゲティンゲン大学において、ドイツで初めて女性として博士号を授与された」旨の展示がなされていた。むろんこれは誤りであり、正確には「哲学博士号を」と記すべきだろう。ともあれ、それ以後、筆者はシュレーツァーについても調査を始めたのであった。

 

 以上のようなまったく個人的な経緯を学術論文にくだくだしく書き記すのは、率直に言って気がひけるものである。しかし、筆者が本稿であえてその禁を破ったのは、初めて学問に接する読者のために、研究テーマとの出会いというものについて示唆を与えようと考えたからである。また同時に、本稿のテーマそれ自体も「学問への招待」に相応しいものを選んだつもりである。「ドロテーア」というファーストネームを同じくする二人の女性が、18世紀のドイツにおいて相次いで博士号を取得し、ともにパイオニアとして高等教育を受けようとする後々の女性たちに勇気を与えたこと、にもかかわらず実に対照的な性格をもち、対照的な人生を歩んだことを、本稿では紹介したいと思う。彼女たちの生涯をたどりながら、これから始まる自分と学問との関係について考えるよすがとしてもらえれば幸いである。それでは本題に入ることにしよう。

 

 

※抜粋(続きはリンク先のPDFで読めます):屋敷二郎(2000)「二人のドロテーア : ドイツにおける最初の女性博士たち」一橋論叢,123巻4号,635-652頁